
本書に手をつけるや否や『怖いもの見たさ』的な気持ちでどんどん読み進めていきました。
私立中学校で受けた壮絶ないじめがきっかけで、引きこもり生活に入ったという本作における『当事者』の大澤翔太、二十一歳。引きこもり歴は中学二年、十四歳の頃から七年に及ぶ、と。翔太の家は都内に居を構える祖父の代よりの開業歯科ということでいわゆる『太い』実家ではあります。
もう七年も前の、中学時代のクラスメイトに対する『裁判』というかたちで、翔太の『問題』を『解決』していこうとする。それが可能であるというのも、その『実家の太さ』あってこそでしょう。
今更、『過去』ばかり振り返ってどうなるんだ、ましてや七年も前のいじめの件での『裁判』というのは、などと私も最初は思いました。しかし、過去に『失敗』(例え、被害者というかたちであっても、であるからこそ)をしてしまった人間は立ち直ることができないという日本の社会的な土壌があり、それゆえに敢えて『過去』と改めて『向き合う』という皮肉めいたものも感じました。
さて、本作の途中部分には次のような台詞があります。
「子どもの出来なんて、籤みたいなもんだと思わない? どんなうちにだって、何本かハズレが入ってる。私たちはたまたまハズレをひいちゃった」
子どもの出来もクジみたいなものならば、その子どもというか、もはや生まれてしまった一人の『人間』の人生もまたクジを引き続けるようなものなのかもしれません。もし、外れクジばかり引き続けている人生ではあっても、いつかは当たりとはいわずも少しはまともなクジを引ける日は来るのかもしれません。
エピローグ部分に出てくる翔太の台詞「このまま五十のおっさんになったら、サイテーじゃん」というのも、結局二十歳頃に端を発する自身の問題を二十年近く経っても解決できず、未だ『閉じこもり』がちな四十路近い割には『世間知らず』の私の心に突き刺さるものとなりました。
結局、本作の『8050』というタイトルは最後まで『忌避対象』としてのものであって、現実の『8050問題』に対して呼応しているものではないように感じました。